19th演奏会『ドイツ音楽の系譜』に向けての特別企画として、
音楽監督の雨森文也先生と、今回も共演いただくピアニストの平林知子先生にSPECIALインタビューを行いました。
CAのことから、演奏会の選曲に込めた思い、各ステージのみどころなど、
とても興味深いお話をしていただきましたので、その内容を全文掲載いたします!
長文になりますが、演奏会にいらっしゃる予定の方はもちろん、まだ検討中の方にも必読の内容になっておりますので、是非お読み下さい。
収録日:2015/7/18(土)
インタビュアー:ソプラノ団員Mさん
INDEX
動物園みたいな合唱団!?
―では、始めさせていただきましょう。まず、雨森先生にお伺いしたいのですが、CAの合唱団としての特徴をひとことで表すとしたら、どんな合唱団ですか。
雨森:ひとことは難しいけどね。
―皆さんを見た印象は。
雨森:とにかく、できた経緯が特徴的というか、ホームページに書いてあるけれども、僕の合唱連盟のワークショップでの講習会を聞いてくれて、僕と音楽をするために集まってくれた合唱団だから。普通、そういういきさつでできた合唱団って、なかなかないでしょう、この指揮者のために作ろうという。僕も本当に、そのようなのは初めてと言ってもいいぐらいの出来事だったし。
そのとき、今でも忘れないのは、菱木※1が僕に、何でも先生の好きなことをやってくださいということを言ってくれて。だから、まあ、そんないきさつでできた合唱団ですよね。僕にとっては好きなことを、やりたいだけやってきた合唱団。(笑)だから、とっても大事な合唱団ということです。
―はい。平林先生から見たCAの印象というのは、いかがですか。
平林:ひとことで言いましょうか。
―言いましょうか、はい。
平林:動物園。(笑)
―その心は?
平林:私はずっと自由にやっちゃうんですけど、私が浮かないというか。みんな、けっこう自由な感じで、伸び伸びしている。
あ、檻はない。檻がない動物園みたいな感じです。
―おお。
雨森:放し飼いね。
平林:放し飼い! あっ、そう! そんな感じ。かと言って、ばらけているんじゃなくて、絶妙に調和がとれている。こんなこともやりたい、あんなこともやりたいと言いながら、すごく調和がとれているのが、すごい不思議です。少なくとも私は居心地がいいので、動物園系だと思います。
第19回演奏会 ドイツ音楽の系譜とは?
―雨森先生、その動物園と称されたCAの、今回の19回目の演奏会について、プログラムの特徴を教えてください。
雨森:この合唱団は、僕のやりたいことをやってきたというのもあるのだけれども、だからと言って、僕は独裁的になるのは嫌だったから、一緒に考えていこうねと言ってやってきた。演奏会をやるときに、自分たちで今回はこういうものをやりたいと話し合いながら、18回やってきました。前回のロ短調もそう。今までのなかでは、超大曲だったわけです。バロック音楽の最高峰でしょう。最高の作品をやったから、普通はそれで終わりとなりそうなのに、僕も含めてなんだけど、この合唱団のおもしろいのは、最高峰を見たら、もっと他も見たくなったみたいなことなんですよ。
バッハ以前の作曲家、いわゆるドイツバロックの幕開けの作曲家、それからそのバッハから繋がっていった作曲家、それからその先に影響を受けた作曲家。そうやって、やったことを中心に、もっと広いところも見ようとプログラムに入れたのが、シャインと、ブラームスと、髙田先生ということです。
―世俗の曲と宗教曲とを並べるプログラムというのは珍しいと思うのですが、あえてそのようにしたのは、どうしてですか。
雨森:ルネッサンスまでは、作曲家の仕事は教会で音楽を書くことが主たる仕事だったわけね。パレストリーナなんかでも、世俗は、もう本当にごく一部の仕事だった。それがバロックから古典派、ロマン派になってくると、その垣根がなくなってくる。教会音楽だけを書いていたんじゃ食べていけないし、それだけでは音楽の一面だけと言うのもあって、どの作曲家も両方を重視して書くようになったのがバロックからでしょう。そうすると、その時代的な特徴を踏まえたときに、やはり両方を知らないと、その作曲家を知ったことにならないから、というようなことだね。
―今回は、副題にドイツ音楽の系譜とうたっているわけですが、プログラムのなかで、特に系譜を感じられる、味わえるなと思う場面は、どんなところにあると思いますか。
雨森:たとえば、ブラームスのモテットを聞いたときに、そのなかにバッハのようなモチーフがあるとか、シャインを聞いたときに、後のバッハにつながるようなモチーフがあるとか、髙田先生を聞いたときに、ブラームスのようなロマン派的な味わいがあるとか。まあ、理屈で言ったら何かあるのだろうけれども、理屈を知らなくても、耳で聞いただけで、「そうだよね、どこかで繋がっているよね」というようなことがわかってもらえる曲を選んでいるはずなんだ。
特に、二つのモテットの2曲目「O Heiland, reiß die Himmel auf」の終止へ向かうフーガは、もうバッハのフーガそのものだし、髙田先生のピアノの間奏は、ドイツロマン派の、「え? これ、シューベルト?」というようなね、これは本当に日本人が書いたのかというようなのが入っていたりして。
だから、聴いていただいた人に耳でわかってもらえるというプログラムになっていると思うんだけどね。系譜という難しい言葉じゃなくて、繋がり。
―音楽を通して、まさに繋がっていくというようなことですよね。
雨森:そうそう。
1st シャインの音楽
―では、ステージごとに少しずつ見ていこうと思うのですが、まずシャインです。このシャインの曲たちに関して、先生は、どんな印象を持たれていますか。
雨森:印象というか、ドイツバロックの幕開けというと、一般的に皆さんが知っているのはシュッツなわけで、この合唱団も、シュッツの代表作「音楽の葬送」は、実は演奏会で取りあげているんですね。
だから、今回、バッハよりも前の作曲家を取りあげるときに、安易にもう一回シュッツをやるというほうが、本当はプログラム的には皆がわかりやすいかもしれないのだけど、そこはそうではなくて、シュッツと同時代で、少しシュッツの陰には隠れているけれども、でも実は、後に偉大なというか重大な影響を与える作曲家が他にもいた、というようなことを、僕も含めて勉強したかったし、聞いてもらう人にも知ってもらいなと。日本でも多分知らない人が多いから。
―そうですね。
雨森:もうひとつは、これは平鹿さん※2がプログラミングをしてくれたのだけれど、シャインのいわゆる作曲の語法が、いろいろ引き出しが見えるように選曲されているということ。宗教曲と世俗で計8曲あるけれども、全部違うスタイルで書かれている曲が選ばれているから、これを聞くと、何となくシャインの全体像がおぼろげに見えてくる。だから、これは平鹿さんが素晴らしい。選曲が素晴らしいんだね。
―一曲一曲で本当に個性があるんですよね。
雨森:そうそう。似たような曲をひとつも選んでいないから。
―そのなかで、今回、世俗に関しては少人数の編成でやりますよね。それを取り入れた意図というのは。
雨森:そもそも世俗曲というのは、どこで歌われていたかというと、宮廷なわけですよ。宮廷で歌われるときに、大合唱団が宮廷に入って歌うことはなくてね、いわゆるヴィルトゥオーゾ的な歌手が、ワンパート1人ずつ。たとえば5声の曲なら5人が登場して、そこに楽器が入って、いわゆる合唱じゃなくて重唱的な色合いで、本来はそういう形で演奏するために作られたはずだから、それに少しでも近づけたい。
それに対して、宗教曲というのは教会で聖歌隊が歌うものなんだから、大人数とは言わないけれども、各パート複数人数いるのが前提。その違いが、聞いている方に少しでもわかるようにしたかった。宗教曲と世俗曲とで楽器の入れ方を少し変えたのは、そういうことなんだ。教会の中でやられるものと、宮廷でやられるものとの違い。
―やはり当時、演奏されていた様式に限りなく近いものが……。
雨森:そう。でも、各パート1人ずつなんていうのはとても無理だから、近いものができたらなと。
―そうですね、やるほうとしても。(笑)
2st ブラームスの音楽
―では、ブラームスなんですけれど、ブラームスは、たくさん合唱曲を残していると思うのですが、そのなかで、この2作品を選んだというのは、どうしてですか。
雨森:ブラームスも、すごく引き出しの多い作曲家で、彼は自分で合唱団を持っていたのもあるし、いろいろ合唱団を指導していたこともあって、合唱作品をたくさん書いているわけね。そのなかで、たとえば「ドイツ・レクイエム」のようなオーケストラを伴った大作もあれば、今回やる「二つのモテット」のようなアカペラもあったりとか、いろいろある。一方でブラームスは、たとえばハンガリーの、いわゆるジプシーたちのメロディを集めるようなこともやっていて、まあ、あれは編曲集と自分で言っているけれども、ハンガリアンダンスみたいな曲集を書いたりしている。そういう民族的なものへの興味もあった作曲家だったので、純粋に宗教的なものを題材にしている、それもアカペラで楽器を伴わずに演奏される「二つのモテット」と、民族的なものが伴っていて、かつ、ブラームスはピアノ作品にも素晴らしいものがいっぱいあるけれども、彼の得意としたピアノが、主役になって世俗的なものと重なった作品「ジプシーの歌」を組み合わせた。
それともうひとつは、平林さんというピアニストがいるからこそ、そういうブラームスのピアノが生きるから、ぜひブラームスらしいピアノを皆さんに聞いてもらいたいというのもある。
―と、仰っていますが。平林先生としては、「ジプシーの歌」の特にどんなところを聞いていただきたいと思いますか。
平林:本当は、これは4人の歌手とピアノのための作品なんですね。もともとは合唱ではなくて、歌い手とピアノが密にやりとりをするリートの世界に近い曲なので、普通の合唱曲の伴奏とは、だいぶ違うんですね。だから、大勢いるからワーッと、負けないように大きい音で弾くとかということではなくて、言葉にそうとう寄り添って弾く必要があって。だから合唱の方々にも、ワーワー歌って欲しくないし、ピアノとしても、何かバーッと弾くのではなくて、一緒に言葉を歌いながら弾くということが……。他にも、いろいろそういう曲はあるのですけれど、特に「ジプシーの歌」は、つい、ワーッとやっちゃうタイプの曲なんだけれども、実はそうではないという、そこらへんですよね。
―何か、われわれも、こう、グッと刺さるようなものがありました。(笑)自戒を込めて取り組むようにしたいなと思います。
3st 髙田三郎「わたしの願い」
―あと、もうひとつ、髙田三郎さんの「わたしの願い」がプログラムに入っています。合唱を知らない人から見れば、ドイツ語、ドイツ語と続いてきて、日本人の作曲家の曲が急にボーンと入っているというふうに見えるかもしれないのですけれども、あらためて、プログラムに入れた意図を教えていただけますか。
雨森:髙田先生は20世紀の中頃から20世紀の後半にかけて生きられたのだけれども、その時代というのは、作曲界は新しいことの実験をやってきて、前衛音楽が全盛期、たとえばジョン・ケージみたいなのが出てきたり。そういう時代にあって、髙田先生は、「僕は、そういう新しいことには取り組まない。古典に学んで、その古典から学んだ手法だけを使って作曲する。」とおっしゃっていた。そして、なおかつ、それは神様に捧げるべき音楽を一生書きたいんだということを、本当に外に向かって公言していらした唯一の作曲家と言っても過言ではないと思うんだ、日本人では。
だから、そういう意味で、ブラームスであったり、シャインであったり、ドイツ音楽の系統として、それを作品のなかに取り込むというようなことが、いちばん反映された日本人なんです。
―まさに系譜、繋がっていくような形ですよね。
雨森:そうそう。
―私は、そのときはまだ入団していなかったのですけれども、マンスリーコンサートで髙田三郎をやられてましたよね。その前後で、やはり見え方も変わったのかなと思うのですけれど、そのあたりの印象はいかがですか。
雨森:今回選んだ「わたしの願い」というのは、髙田先生のなかでは、ごく初期の合唱作品だし、この「わたしの願い」で高野喜久雄という詩人に出会ったことが、髙田先生の作曲人生を変えたとも言えるんです。「わたしの願い」は、NHKの委嘱だったのですが、髙田先生は、NHKが準備した詩が気に入らなかった。こんな詩では書きたくない、詩人に書き直してもらってくれと言ったら、詩人もプライドがあるから、なぜ書き直さなければいけないのだと言って決裂してしまって、それは困ったということで、NHKの担当プロデューサーと髙田先生が図書館へ行って、2人で詩を探し始めた。そのときに髙田先生が、パッと手に取ったのが高野喜久雄さんの詩で、これは何て素晴らしいんだということで、数回の連絡をとって、君の、この詩なんだけれども、これを作曲したい、ついてはこれひとつでは足りないから書き下ろしてくれないかと言って、ひとつ書き下ろしてもらって2曲になって「わたしの願い」が書かれている。
そこから、高野喜久雄・髙田三郎というペアが生まれたんだね。そのあと「水のいのち」「ひたすらな道」「内なる遠さ」など、たくさんの合唱作品が生まれたきっかけになったわけで。そういう意味で「わたしの願い」は、髙田先生としては運命的な出会いの作品だから、1曲選ぶのならば、これかなということになった。
それからマンスリーコンサートでいろいろやったのは、そこから繋がっていって、どういう仕事を髙田先生がされたかということを知ったうえで演奏するのと、その1曲しか知らないのとでは、言うまでもなく大違いだから、できるだけ、あとに続く作品も勉強して、フィードバックして演奏に繋げようというのが試みだったんだけどね。だから見え方が変わったかどうかは、僕は知らない。みんなの中で変わっていたらいいなということ。(笑)
―いなかったことが悔やまれますね。(笑)
平林先生は、「ジプシーの歌」と、またちょっとテイストの違うピアノになると思うのですけれども、弾くときに特に心がけていることですとかは。
平林:弾くときにというよりは、髙田先生の曲は、もう完全に宗教曲なので、常に神様と向き合うことになり、人間として罪を感じるので重いんですよね。私は、髙田先生の曲は、他にもいくつか弾いたことがありますけれど、弾く場面場面によって、役割は、たとえば神様の立場で弾いたりとか、しもじもの人たちの立場で弾いたりとかするんですけれど、いつも僕(しもべ)という言葉がよぎる。
―僕(しもべ)。
平林:自分自身がですよ。弾いてると、私が僕(しもべ)であるということがよぎることが、すごく多いので。低い音でずっと分散和音を弾いているんですよ。私は、そっち側なんですね、何か。やはり低いほうに自分がいて、鐘の音は鐘の音で、もちろん弾くのだけれども、あ、自分はこっち側だなと、すごく実感しながら弾くことが多い。
「水のいのち」を弾いたときもそうです。「心の四季」、MCでいろいろやりましたけれど……。
髙田先生は、割と楽譜にそのまま、その形で残してくださっているので、わかりやすいんですね。三位一体を表す数字の3であるとか、私たちの話をするときに4拍子に変わるとかということとか、天に近づくように上へ向かっていく音符、人間のいる地に降りるように下にだんだん下がっていく音符、本当にわかりやすく書かれています。ロ短調をやったので、本当にバッハと一緒だなというのが、手に取るようにわかる。そういう意味でも、ドイツものを勉強するのに、はずせない作曲家だと、私も思います。
CAメンバーへの期待、お客様へのメッセージ
―ここまでプログラムを全部見てきましたけれども、これらを今のCAがやるということに対して、CAのメンバーには、どんなことを期待していますか。ちょっと聞くのが怖いのですけれども。
雨森:期待?
―期待。今回の演奏会に関して、われわれに。
雨森:今回というか、いつでもそうだし、どの曲でもそうだけれども、作品というのは、作曲家が、もう命を削って音符をしたためたものであるから、命を削って歌ってください。よろしくお願いします・・・ということです。
―平林先生は。
平林:削って弾きます。(笑)
―みんなで削っていくと。
平林:はい。(笑)
―あと、最後になるのですけれども、今回ブログに文章が載るということで、いろいろな方が見られると思うんですね。それをきっかけに演奏会に来てくださる方もいらっしゃるかもしれませんので、ぜひ演奏会に来てくださるお客さまに向けて、それぞれ一言ずつメッセージをいただければと思うのですが。まず、雨森先生から。
雨森:メッセージというよりも、とにかく演奏会に来てくださるということはね、ご自分の大切な時間を僕たちのために割いてくださって、そこまでの交通費をかけて来てくださるわけなので、ぜひ来てくださった方に、これは、いつもみんなに言っていることだけれど、三善先生がおっしゃるように、来てくださった方が、一緒に生きていられるような音楽が、そこに流れるような努力を、僕たちはするしかない。だから、お客さまに、どうのこうの言うようなことではなくて、そういう思いで僕たちがやったことに対して、三善先生のお言葉のように、来てくださった方が日常を離れた素敵な時間を過ごして、幸せだったなと思って帰っていただけるような演奏をやれればいいなぁということ。もしそうじゃなかったら、チケット代をお返ししようかな。
―うゎーあ、頑張らないと。(笑)平林先生も、お願いします。
平林:そうですね、いまもし、この日あいているけど行こうかな、どうしようかなと思っていらっしゃる方は、ぜひ来ていただきたいと思います。という練習を今からしますので、ぜひ来てください。
―はい、ありがとうございました。
一同:ありがとうございました。(拍手)
注釈
※1:CA創団時からのメンバーの一人。CA結成のきっかけになったワークショップに参加。
※2:CAの団内指揮者。
☆ ☆ ☆ ☆
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CANTUS ANIMAE The 19th Concert ドイツ音楽の系譜
日時:2015/8/22(土)
開演:18:30 (開場:18:00)
会場:杉並公会堂 大ホール 全席自由
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入場料:一般2,500円(前売り 2,000円) 学生1,000円
Ⅰ
シャイン
「イスラエルの泉」より
「羊飼いの快楽」より
Ⅱ
ブラームス
「二つのモテット op.74」
「ジプシーの歌 op.103」
Ⅲ
髙田三郎
「わたしの願い」
作詩:高野喜久雄
[指揮]雨森文也[ピアノ]平林知子
[リコーダー]古橋潤一
[ヴァイオリン]堀内 由紀
[ヴィオラ]天野寿彦、池田梨枝子
[ヴィオローネ]西沢央子
[オルガン&ルネサンスハープ]能登伊津子