【20TH つながる魂のうた】地平線の記憶 – 地球へのバラードが生まれたときー


それは、もう今から30年以上も前のこと。だから、記憶はとても朧げで、はっきりとした輪郭を伴わない。ただ確かなことは、あの時、私達が望んでいた地平線は、とても遠く眩しく、未知の希望の光と共にあった。

委嘱のきっかけ:三善さんとのであい

私を含む私の柏葉(東京大学柏葉会合唱団の略)の同期(80年入団)は、柏葉に入った頃から、自分達が卒業する4年の定演がちょうど柏葉会30回定演になることを知りながら育ち、そこに向かって皆で何かしたいと考え、事あることに互いに何をすべきか話していた。

その話は、年を経るごとに明確な焦点を結ぶようになり、それまで柏葉が一度も挑んだことのなかった合唱組曲の委嘱初演、しかもお願いするのは皆が大好きだった三善晃(敬称略)ということで、団全体が合意するところとなった。

幸いなことに、三善さん(と我々はそう呼んでいた)が学長を務められていた桐朋大学にUTさん(私達の3期上)という柏葉の先輩がおられ、彼女から授業の後に先生にアプローチして頂き、その後、同期の学指揮である鈴木千加志君と私で、初めて三善先生の自宅を訪ねた。

杉並の閑静な住宅街に佇む飾らない一軒家だった。何をどう話したかはっきりと覚えていない。とにかく自分達の思いの丈をそのままぶつける私達に、先生は、静かに優しく微笑みながら、その我々の願いを快諾してくれた。それまで何の接点もない学生だけによる合唱団のために、今よりはるかに知名度も実力もなかった見知らぬ合唱団のために。

詩を選ぶ:手さぐりの旅路

そこから、先生と私達の手さぐりの旅は始まった。詩を選ぶのに、先生は私達学生との共同作業を許してくれた。詩は谷川俊太郎(敬称略)からということだけ決まり、まず私達が、谷川俊太郎の詩の広大な宇宙から、曲にしてほしい詩の候補を選ぶこととなった。選曲ならぬ選詩委員会なるものが立ち上げられた。

選詩委員会の委員には条件はなく、誰でも参加できた。ただひとつ、各人は谷川俊太郎の様々な詩集を読み、そこから自分が好きな詩を持ち寄り、皆の前で朗読し、詩に対する思い、曲にしてほしい思いを語ることだけが求められた。

練習の後、イーグルという喫茶店に皆は集まった。そこで私達は人生の中でも至高の時間を共有した。仲間の朗読に耳を傾け、その思いに共感し、時に涙し、時に激しく議論した。仲間の知らなかった一面を垣間見る、そこは団員同志の心と心が重なり合う新たな出会いの場でもあった。一体、幾度その集いを繰り返しただろう。

やがて、数十の詩から成る小宇宙が形成された。今のようにパソコンなどない。私達は、詩をそのままコピーして張り合わせて、三善先生の手元にお届けした。

■ダイアローグの末に

<資料①>と<資料②>はその抜粋で、所々に三善先生のコメントの走り書きがある。我々は十数頁から成るこれら詩の張り合わせを先生のもとにお持ちして、先生に読んでもらい、再び先生のもとを訪れて先生のコメントを頂き、それをまた皆のもとに持ち帰ったのだ。

こうした先生と団員の双方向のダイアローグの末に、各人は、各々が推す詩についてもう一度文章をしたためて(1982年)911日まで私に提出するように、という走り書きが<資料①>の右上に読みとれる。残念ながら、先生に提出されたその心の刻印の文集は残っていない。

1年が過ぎて・・・

それからちょうど1年。1983918日。

<資料③>「地バラ」終曲の三善先生の自筆楽譜の末尾に、先生のサインと共にその完成の日付が記されている。先生が<資料④>初演プログラムに書かれているように、私達と先生の語り合いが始まってから初演の日まで、2年の歳月というのは決して誇張ではない。

更に先生はこう書かれている。我々には、「祈り」と「希い」しかなかった。それは強い光源となり先生を照らし、先生はそこから曲作りに旅立たれた。

■三善先生のご指導

曲が順番に出来上がってきて、その一つ一つと格闘した僕らの様子はここではとても書ききれない。ただこれだけは伝え残しておきたい。練習の大詰めに、先生が練習に来て下さった時のことだ。

先生が何をしたか、よく覚えてない。ただ、僕らははっきり覚えている。先生が僕らを導いた時、音楽の全てが変わった。歌は、空に向かって風のように舞い上がった。言葉一つ一つが生き生きと命をもって響きあった。僕らは、思わず喜びと共に互いに顔を見合わせた。先生の声は限りなく優しかった。

三善晃先生によせて

本当に残念なことに、2013年に先生は80歳でご逝去された。そして今、私は、先生が「地バラ」を作られたのとほぼ同じ50の齢に達している。当時の資料と先生のメッセージと、そしてこの曲の楽譜を読み返していると、先生がどのような思いで、我々の「祈り」と「希い」を受け止められたのか、思いを馳せることができる。

我々の一途な眼差しの先に、悲惨な戦争の体験も含む50年の歳月の中で背負われてきた自らの人生の重みと影を一体どのように重ね合わせて、先生は、この地球への拡がりをもったバラードを生み出したのか、ほんの少しだけ先生の気持ちに近づいて、その受容と偉業にただ自ずと手を合わせる。

■みんなで作り上げた「地バラ」

この曲の楽譜には、初演の際の学指揮である同期の鈴木千加志君の名前がある。学指揮が三善晃の合唱曲の初演を手掛けることは途方もない難業であることは想像に難くない。彼の才能と情熱なくしてこのバラードは語れない。

だが、この素晴らしきバラードを生んだのは、そこまで共に地平線を望み続けた私達仲間全員の連帯であり、自らの発するところから共に音楽作りを行う柏葉の素晴らしき伝統を培った諸先輩、そしてそれを引き継いだ後輩の皆さん全ての力である。柏葉の定演で「地バラ」を聞く度に、心からそう思う。

■愛され続ける作品

「地バラ」を初演した時、この曲がこれほど永く広く愛され続けると誰が想像しただろうか。柏葉の定演だけでなく、様々な機会に数知れぬ合唱人がこの曲を心から愛おしそうに歌うのを聴く度、私達はあの時に見たものとは全く異なる地平を望見する。

それは、あの場に居た者だけの眼の前に拡がったあの眩しい地平線ではない。永遠のいのちの営みと時空を超えた無限の広がりをもった出会いの地平線だ。そして、そこには、過去と未来の誰もがいる。三善先生が私達にくださった「バラード」は、実は、そういうものだった。30年かかって、そう気づかされた、と先生にもう一度お礼を言いたかった。

最後に

最後に、資料①、②、④は、私自身のものでなく、31期(一年後輩)の廣川(旧姓伊藤)アユミさんが大切に保存していたものを提供してくれた、その抜粋である。これらの資料なしには、私達が望んだ地平線の記憶は、彩りある残像を伴って柏葉と合唱界全体の歴史に残せなかった。ここでもまた、かけがえない仲間とその慈しみ深さに感謝の念が絶えない。

2016410日)

Cantus Animae テノール、柏葉会「地球へのバラード」委嘱委員長 落合輝彦

※この文章は、2014年発刊の「柏葉会史」掲載の筆者の拙文を一部修正したものである